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「皆神山」②



 皆神山の続きです。

この皆神山にまつわるワード、古代の飛行場、反重力、ピラミッド、パワースポット、六芒星、籠目(かごめ)・・・
なんとも興味をそそられる場所です。
もし行かれる方はいろいろ調べてから頂上にある皆神神社を訪れてみて下さい。
私が気がついた秘密に気がつくかも知れません。


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 ちなみに、私は神社へ行くと必ず御神木に触れさせて頂きます。
良い事なのか悪い事なのか分かりませんが・・・
御神木って不思議だと思いませんか?
多くの神社には御神木と呼ばれる立派な木が存在します。
でも、不思議だと思うんです。
神が宿るから一本だけ立派な木に成長するということで良いのだと思いますが、神社と御神木1本が一緒に存在するのはなぜなんでしょうか?
考えられるのは大きく分けて二つだと思います。

・ 御神木になりそうな木がある所に神社を造った。
・ 神社を造る際に御神木になりそうな木を植えた。

でも、上の場合だと、そんなに都合良く御神木が点在するはずがないと思います。
また、下の場合だと、もし周りと違う特別な木を植えたとしても、それだけ立派に育つ確証もないと思います。
御神木が存在する理由はよく分かりませんが、特別なパワーを感じるのは事実だと思います。



 この皆神神社にも御神木があります。
それは神社の裏手にあるのですが、これまた不思議な形をしており、何とも風格があります。
そこでです、以前の話ですが、私は御神木に手を合わせ写真を撮らせて下さいとお願いし、スマホでパシリ!とさせて頂きました。
しかし、写った画像は何枚撮っても普通ではないものでした。
カメラがおかしいのかと思い、アングルを変えて撮ると普通に写ります。
しかし、また御神木に向けるとまともに写りません。
怒りなのか何なのか分かりませんが、諦めて手を合わせました。
やっぱり御神木には神が宿っているのだな・・・と感じてしまったのでした。


 これがその時の写真です。

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 絵じゃないです、写真です。
もちろん何の加工もしてません。
もちろん上の神社の写真と同じ時間に撮ったものですから、暗かったとかではないです。


 もしかしたら今行って撮れば普通に撮れるのかも知れません。
でも、この時は何かしらのメッセージだと受け止めようと思いました。

皆神山についてはまた書こうと思います。

「皆神山」①



 長野県松代にある「皆神山」をご存知でしょうか。
ここから一時間ほどのところにある神社のある山です。
古代の飛行場、パワースポット、ピラミッド・・・
いろいろ言われていますが、実際に普通ではない場所であることに気づいている人はどれくらいいるのでしょうか。


 パワースポットブームの際には戸隠神社や諏訪大社、皆神山にも観光バスで多くの人が集まって来ました。
そのお陰でそれらのパワースポットと呼ばれる場所は澱んだ気で溢れてしまいました。
参拝に行くとその澱んだ空気で具合が悪くなりました。
みんな「良いことがありますように!」「夢が叶いますように!」「宝くじが当たりますように!」・・・と、好きな事を手を合わせていったのでしょう。
その欲がそのような空気を作ったのだと思います。
みんな感謝の気持ちを差し置いて望みばかりを押し付けている気がします。


 そのブームも去り、皆神山にも心地良い静けさが戻ってきました。
この存在感・・・どうでしょう。

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中腹にはピラミッドと呼ばれる所以となるものが。
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そして、これは書こうか迷いましたが、頂上の神社の上にある祠の裏に秘密が隠されています。
ここにこの山の中心があるようです。
以前、自ら行って感じ取ったことをブログに書いたところ、皆神山の近所にお住まいの方からコメント頂きまして、それが正しいことが分かりました。

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 興味のある方はぜひ行ってみて下さい。。

                        ②につづく

「人に腹が立つとき②」



 どれだけ腹が立つかは「比較」でしかない。
例えば、ちょっと表現は悪いですが、自分にとっての有害レベルを10段階で判断するとしましょう。
極端な話、自分にとって有害レベルMAXの10は危害を加えてくる程の人でしょう。
レベル1、または0とする人はいつでも優しくて何でも言うことを聞いてくれて本気で心配してくれる人。
となると、レベル5が普通ということになります。
良いときもあれば嫌なときもある人というところでしょうか。


 今現在、職場や近所でとても嫌な人がいて「本当に腹が立つ!」という方は星の数ほどいらっしゃるでしょう。
で、その嫌な人を先ほどのレベルで表現するなら、まさか10は滅多にないでしょう。
どんなに高くてもレベル8位ではないでしょうか。( もし10なら今すぐ警察に通報することをお勧めします
 m(_ _)m )
とすると、あなたの怒りマックスの矛先は今現在レベル8に対してという事になります。

 なぜそのレベル8の人に怒りを覚えるのでしょう。
それは、他の人達がレベル7以下の人達だからです。
では、もし仮に何らかでその8の人がいなくなったとしたら、自分の中の怒りはキレイさっぱり無くなるでしょうか。
おそらく今度はレベル7の人に向けられるのではないでしょうか。
もちろん8の人ほどの怒りではないかも知れませんが。
7の人がいなくなったら、怒りまではないかも知れませんが、6の人の事が少し煙たくなってくると思います。


 極端な例を出すと、仮にほとんどの人がレベル1の良い人ばかりで、一人だけ普通レベル5の人が一人だけいたとします。
すると、「レベル5の奴、俺に対して優しさが足りないよな。なんか冷たい!」と成りかねません。
本来普通の人なのにです。


 今度は大勢の1の中に一人の5と一人の9の人が現れたらどうでしょう。
それはそれは怒りを通り越えて恐怖すら感じるかも知れません。
しかし、5の人への怒りと9の人への恐怖が同レベルで襲って来るでしょうか?
おそらく、9の人への恐怖でいっぱいになり、5の事など気にならなくなるのではないでしょうか。
「9の恐怖に比べたら5なんかどうでもいい!とにかく9をなんとかせねば!9さえいなければ・・・」となると思います。



 そんな感じで、人に対する怒りというのは常時比較することによって生まれてくるものだと思います。
もし、レベル10の人達に囲まれていたら、たった一人のレベル5の人なんか物凄く良い人に感じるでしょう。
なので、ある意味自分の心持ち次第である程度制御出来るかも知れません。
理由はどうあれ、出来る限り怒りは無い方が幸せですからね。


 繰り返しになりますが、だからって「全て気にしない」なんて言いません。
レベル5や6以上の人は必ずしも悪だとは言いませんが、やはり気にするべきところはちゃんと気にするべきで、それに気づかないのなら周りにそういう目で見られることも必要だと思います。
また、それは人ばかりでなく自分も同じく気にすることを忘れてはいけないと思います。
無意識に誰かのレベル7位になっているかも知れませんから。
「自分は大丈夫!」と思う人は一番危ないかも知れません。
自分が正しいとは思わない事が大前提ですね。
立場や目線が変われば見え方もガラリと変わる。


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 人には喜怒哀楽が備わっている訳で、それを出すことによってストレスを回避したり自分を守ったりするものですから、「これは客観的に考えても酷い!」ということはある程度表現してしまって良いと思います。
その方がお互いの為です。
でも、こうやってリアルタイムに冷静に分析出来るようになると、何より自分にとって無駄な神経を使わなくて済むような気がします。

健康の為にも極力怒りから遠い生活を目指したいと思います。

「人に腹が立つとき①」



 毎日同じ環境で仕事をしていたりするとどうしてもイライラしたり腹が立つことがあります。
「なんでそんな事が言えるんだろう」「コイツさえいなければ平和なのに」
と特に特定の人間に腹が立ったりする訳です・・・
そしてその内、「自分は何て気が短いんだ」「実は自分の方が性格悪いんじゃないか?」
と、深みにはまってしまったりして・・・
で、気づくと何だか腹を立てている相手は何事もないように飄々としていて、被害者であると思っていた自分の方がイライラして嫌な奴になっている・・・
自己嫌悪・・・

 でも、その根源は「トラブルを起こしたくない」「腹を立てたくない」
という平和を臨む気持ちから来るものではないでしょうか。
自分は誰とも仲良くやっていきたいのにそれを蹴散らすように失礼な態度や行動を起こしてくる。
そんな相手に対して「なぜ平和に出来ないんだ!なぜ乱すんだ!」と、腹が立ってしまう。
この時点で、”自分は善相手が悪”になるので怒りが倍増してくる。


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 でも、ある時気づきました。
もちろん間違っていると思われても仕方ない人もいるのは事実ですが、どれだけ腹が立つかどうかは全て自分の中での「比較」でしかないんだと。
そこに心から気づくと、少し楽になります。



 と言っても、「考え方を変えて人を理解して寛大になりましょう」なんて綺麗事を言うつもりは更々ありません。
そんなの人間である以上無理ですから。
また、そう思われる人にも思われる役割というかカルマのようなものがあるんだと思います。
だから、擁護するつもりもないですし、やっぱり仲良くなれるタイプに変わって欲しい。
・・・なんてのはこちらの自分勝手。その人も仲良い人もいるかも知れませんし、逆にこちらの事をそう見てるかも知れない。
考えるだけ無駄ってところですが、なかなかそう割り切れない時もあります。



 とは言え、深みにはまって気づいたら自分だけが苦しんでいたなんて馬鹿らしいことは避けたいところです。
なので、この「比較」という事に気づくとムカっとした気持ちが少し楽になります。

 続きは次回②で。

「TERAKOYA」


 本日、息子が高校受験に挑んでいます。
部活漬けの毎日が終わると今度は受験勉強・・・
何にでも頑張ることは良いことで、そんな姿を見ていると頼もしく思えてきます。


 ただ、以前から思っていたのですが、もうそろそろこういう戦後の国家政策のような教育システムは終わりにした方が良いのではないかと思うのです。
そもそも、この大人数を同じ方向を向かせて同じ教育方法で果たして子供達が自分の能力を発揮し、楽しい人生を送る事が出来る訳が無いと思います。
もちろん、自分が送った学校生活を悔やんでいるわけでもありませんし、学校というものが間違っているとまでは言いません。楽しかったし友達も出来ました。


 しかし、私が自分の好きな事、得意なことに気づきのめり込めたのは大人になってからです。
子供の頃は、いくつかの選択肢を決められ、そのどれに向かっていくのかという事だけしかなかった気がします。
どちらかと言うと私は少々変わっていて、物事を人と違う見方をしたり(今でもそうですが・・・)、興味を持つ事が人と違っていました。
別に今考えればそれがどうしたという話なんですが、当時は「みんなに合わせなきゃ」「同じように出来なきゃ」「みんなと同じでなければ自分がおかしいんだ」・・・と自分を責めていたことを思い出します。
今でもその思考は多少残っているかも知れません。
気がつくと苦手なことばかりが頭に浮かんで、コンプレックスを大量に生産していました。


 今考えるとなんて馬鹿馬鹿しい事なんだと思います。
「みんなと一緒である必要などない」「人と違うということは、それに関しては自分の方が優れているんだ」「そう思えなかったのは”右へならえ”の教育のせいだ」・・・
今ではそう思えます。


 要するに、大人数を社会の常識とやらに合わせさせ、社会にとって、ひと握りの人間にとって都合の良い大人達を作るのが目的になっているのだと思います。
社会(会社)というのは頑張れと言う割には飛び抜ける事を嫌います。
文句を言わず、命令されたことを淡々とまんべんなくこなして、会社に利益だけをもたらす大人が偉い大人ということです。
元々、社会というものは自分達の幸せな生活の為に作られたはずなのに、気づけば社会に踊らされ自分の気持ちなど後回し、我慢すること、苦しむのが立派な大人の証しとされています。
アホらしいですよね。
生まれてきた以上、自分の力を最大限に活かし、精一杯人生を楽しみたいと思います。


 そこで、私が提案したいのは、寺子屋の復活です。


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 何百人の子供達に同じ教育を受けさせるのではなく、先生達が自分の得意な分野の旗を掲げて「うちはこんな事を中心に勉強します!いずれはそのスペシャリストを育成します!」
と、独自の寺子屋を個人で作るのです。
その先生達には学校教育と同じように給与を支給し、必要なものは行政が補助する。
そうすれば、子供達も自分の好きなことに特化した教育が小さい頃から受けられる。
結果、大人になった時自分の好きな事で生活をし、社会貢献ができると思います。


 そして先生達も自分の寺子屋を維持し発展させていく為に必死で頑張り、それが子供の為にもなるはずです。
先生は責任というものを背負う代わりに、合わない同僚とぶつかる必要もなくなり、自分についてくる気のある子だけを自分式で教える事が出来る訳です。


 これは私の戯言です。
正しいかどうかもわかりません。
ただ、全て学校のせいと言うつもりもありませんが、小さい頃から自分をもっと出せていたら人生もっと楽しめたのかなと思ってしまうのです。